ラベル idée の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル idée の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年6月6日土曜日

le juin

6月に入り、
入園式から3日でお休みになっていた幼稚園が始まりました。
遊ぼう会などで時々幼稚園に行っていた娘は
幼稚園大好きだったので
入園式翌日の初登園ではウキウキだったのですが
1日目にして
幼稚園はもうかあちゃんと一緒にはいけない
ということに気づいて2日目から毎朝大泣き。
(ただし給食は完食+おかわり)

そんな状態でそこから約2か月、親子べったりすごしたので
すっかり甘えん坊になって
「幼稚園に行くとかあちゃんがどっか行くから幼稚園いかない」
と毎日ことあるごとに断言。

再開された初日の朝
起きた瞬間から行きたくないと泣いていたので
なんで行きたくないの?と聞くと
「かあちゃんがいなくて寂しいから」
と自分の思いをはっきりと伝えてくれました。

そこで、「寂しいけど、楽しいかもしれないから
楽しいかどうか見に行って、楽しくなかったらその時また考えよう」
と提案すると、
意を決して「頑張る!」と言ってくれました。
(登園の時はやっぱり泣いて大変でしたが。。。)

今まで通っていたのに行きたくないと言い出したのなら
なにか理由があってのことなので
行かずに一緒に考えたり解決したり色々あると思うのですが
まだちゃんと行ったことがないので
まずは行ってみて自分が楽しく過ごせる場所かどうか
見てきてほしいと思ったのです。

何をしている時も幼稚園が頭の片隅にあるようで、
なんの脈絡もなく突然「今日幼稚園がんばった!」
という事がしょっちゅう。
結局毎朝「行きたくない」と「行く」の狭間で揺れ動き
行くといいながらも寂しさを思い出して泣いていたり。
それでももう、行ったら結構楽しんでいることはあきらかなので
ある朝
「もう、行きたくない時は言わないで。行きたい気持ちになったら教えて。」
とお願いしてみました。すると
黙ってテレビを見ながら気持ちを作って
よし!と心が決まった時に「行く!がんばる!」と言いに来ます。
木曜は「徒歩なら行く」という条件付きだったので
歩けない距離ではないので付き合いました。
二人で毎日いろんな妥協点をさがしていきます。

炎天下の日陰のない田んぼ道をダッシュで登園という苦行

1週間、こんな毎朝の行く行かないのやりとりと
幼稚園での出来事を話してもらう時間などを通じて
これまで娘にSTEPの考え方を大切に接してきた
その効果がぐっと目に見えて現れてきたな、と感じました。

このブログでSTEPについて書くのは初めてだと思いますが
娘が1歳の時から私が学んでいる
アドラー心理学をベースにしたコミュニケーションメソッドで
子育てに大いに役立ちます。

わかりやすく言えば
あなたがSTEPを学ぶと子供がこういう風になりますよ
と言われていたことが現実になった感じです。
助かるな、と感じるのは
なぜ泣いているかわからない
ということがない、ということ。
珍しく泣きわめいて、たぶん機嫌が悪いんだろうなっていう時
お手上げになって「泣くのが終わったら教えて」
ってその場を少し離れたら
ちょっと経ってから「エンエン泣くの終わった」って
報告しに来てくれたことがあります。
そのあと2人とも冷静になぜ泣いたのかを話すことができました。

それから特徴的だと感じるのは
なぜ泣いているかわかる、にもつながる事なのですが
自分の気持ちをとてもしっかり伝えることができます。
なぜ泣いたか。なぜ怒ったか。何が楽しかったか。
幼稚園の話も
「楽しかったけど、泣いてるときは楽しくなかった。だから明日は泣かない。」
「滑り台してねー、楽しかった。ほんで、風が気持ちよかった~」
(と答えて両手を広げ天を仰ぐ)
友達との喧嘩の理由やいきさつもよくわかります。

そしてすごいな、と思うのが
2歳ながらに私を勇気づけてくれること。
「かあちゃんごはん作ってくれてありがとう。うれしいなー。」
「かあちゃんお掃除上手だよねー。」
「その色選んだの、いいねー!」
昨日は
「幼稚園でかあちゃんにずっと会いたかった。」
「かあちゃんもキコちゃんに会いたかったよ。」
「そっか。。。でもキコちゃんがいるから、もう大丈夫よ。」
ハグして背中をポンポン。
・・・イケメンか。

うちの子だってSTEPやってないけど
それくらい言えるわ
っていう人もきっとたくさんいると思うのですが
少なくとも私の場合は
STEPを知らなかったら
子供に対してもっと別の言い方をしていたと思うので
そうすると返ってくる反応が違ってきて
(別の大人と接している様子を聞いているとよくわかる)
ここは平和には過ごせてなかっただろうな、と思うことが多々あります。


鍼に行くたびに増える鉢

初日3日間の大暴れ登園が祟って
首と背中を痛めてしまい
鍼治療に通う羽目になってしまったのですが
娘の預け先を気にせず鍼に行ける幸せを噛みしめられたし
治療院の隣に素敵なお店があって素敵な買い物ができたし
結果、いいことしか起こっていない私の6月です。
(よくない事はなかった事にすればゼロカウント)

2020年5月16日土曜日

Mademoiselle "NON".

前回の投稿からまたしても1年以上の時が。。。
1年前の文章が残っているのは
なかなか面白いものだと感じました。

イヤイヤが言えるようになった娘のそれから。

相変わらず「イヤ!」と言い続けていて
寝言でもイヤって言っています。
よっぽどイヤなんですよね。

イヤ、と言われたらひたすら交渉あるのみ。

出した着替えがイヤだといわれたら、
全部自分で選んでもらいます。


幼馴染と畑仕事。
帽子も下着もパンツも靴下も
なぜか全部水玉を選びました。
とにかく何でも自分の意志で決められる人に育っています。

理由がわからないときは
なぜイヤなのかを聞くようにすると
泣いて怒っていたとしても
気持ちが落ち着いてから話してくれます。
本当にイヤなわけではなく
さみしい、とか自分でやりたかったとか
他になにか理由があることもとても多いです。
まずは”イヤ”という本人の気持ちを否定したらよくないなーと感じています。
(イヤイヤいわないの!とか。)

で、結果
”イヤイヤ期”というものはやはり存在しないというのが実感です。
周りの大人が思い通りにならない時に
名前を付けて納得して終わらせたいんだな、と。

前置きが大変長くなりましたが

待っていたら落ち着く、話し合うことができる
というのは
イヤ!といった時だけではなく
例えばお友達と喧嘩した時や
おもちゃを貸す貸さないで揉めた時も同じことのようです。
貸してあげなさい!とか喧嘩しないの!
と子供の憤懣やるかたない気持ちを無視して
仲裁に入って
うまくおさまったところを見たことがありません。
もし、親が仲裁に入って止めておさまったように見えても
本心では納得していません。
私悪くないのに、とどっちかが思っていたり。

止めたくなるところを我慢して見守っていると、
(はじめはなかなか難しい)
子供同士でちゃんと折り合いをつけて
ごめんね、いいよ、って言い合えたり
そもそも怒っていたことをお互いでなしにしたり
気持ちを落ち着けてから時間をおいて「貸してあげる。どうぞ。」
ってできたり
お互いがちゃんと納得して、どちらかが悶々と不満を抱えることなく
平和な時間を取り戻しています。
2歳や3歳でちゃんとそれができます。
そうして色んな可能性や能力を自然に見せてくれるので
子供って素敵だなーと毎日目が離せません。
別の意味でも絶対に目が離せません。

水玉を身にまとった娘と幼馴染のお友達は
追っかけ合ったり時にはつかみ合いのけんかになることもあるけれど
でもいつもちゃんと仲良しに戻っています。
喧嘩中に親のわたしたちが「もうやめなさい!」と引き離したら
お互い腹を立てたまま引き離すことになって
きらい!って思ったままだったり
本当は好きなのに喧嘩したまま別れて悲しい
という風になってしまうかもしれません。
自分で決めて、自分たちで解決していくのを
一緒に見守れるのが素敵な”ママ友”だなと感じています。

こんなことを考えていた時に
ある人が「それって大人も同じことですね。」
と意見を言ってくれて
たしかにしょっちゅう喧嘩してもすぐ仲直りする人たち
たくさんいるなー、と気づきました。

”けんかをして制服姿で殴り合いながら土手を転がって
最後に友情を深める”みたいなこと
本当にあるのかな?と思っていたけれど
気が済むまでぶつかりあうから仲良くなれるというところは
子供のそれと同じことなんですよね。
大人は、子供は、と分けて考える必要もないし。

殴るのはもちろんよくありませんが、
もし土手の上で周りの友人達が「おいもうやめとけよ」
ってふたりを押さえて引きずってそれぞれの家に連れ帰ったとしたら
土手を転がって分かり合う機会を奪われた二人は
ずっと相手にイラついたままになってしまいそうです。

ブラジルの人は友人でも絶対に仲裁に入らない
というのを聞いたことがあるのですが
もしかしたらその理由は
仲裁するとトラブルが大きくなるからなのでは、と思いました。
(違うかもしれません。)

これからも信じて見守るスタンスで行きたいです。

2019年3月7日木曜日

Ça fait déjà 2 ans !


前回の投稿から
なんと2年も経ってしまいました。
次の春が来て、その次の春もやって来ました。


1歳8ヶ月の娘がパズルのおもちゃで
ブロックを穴に入れられるようになりました。
与えてすぐは何にもできなかったのに
今では手に持ったブロックに合う穴を
歌いながら探しているのですから
面白いものです。

娘を見ていると、
自分が子供だった頃の記憶がよみがえり
娘があの時の自分と同じ立場だと
不思議な感覚に襲われる事が 
とても多くあります。

私もよく似たパズルのおもちゃを持っていて
子供部屋でひとり
ブロックを黙々とボールに入れていました。
その時自分なりに、
丸や四角などの単純な形はサラッと先に済ませて
その次に台形
五角形と六角形の間違いがちなふたつ
星と十字の複雑なかたちのふたつ
複雑なかたちを入れた瞬間の
満足感を楽しんでいた記憶があります。
その頃、妹がまだ赤ちゃんだったので
自分は3歳くらい。
そのことを思うと、娘も娘なりに
色々考えてパズルをしているのだろう
と想像できて、見ているだけで面白いです。

こんなふうに、子供と接していて
自分が
子供の立場の気持ちになることが多いためか
最近、人から「イヤイヤ期だね」
と言われることが
とても辛くなって来ました。

Yes/Noの意思表示が
産まれた時からはっきりしている娘ですが
今では母親だけでなく誰に対しても
はっきり分かるように
主張できるようになりました。
赤ちゃんの時よりも、選択肢が増えたために
Noの確率が自然とあがります。
「イヤイヤ期じゃなくて、
Noって言えるようになっただけなのに。」

私がイヤイヤ期という言葉を初めに意識したのは
子供を持つずっと前のこと。
友人の娘さんがちょうど今の私の娘と同じ頃
初めて会った時でした。
私は、特に深く考えもせず漠然とした知識から
「イヤイヤ期ってあるの?」ときいたら
友人は
「うーん。イヤイヤ期なのかもしれないけど
どれがいい?って自分で選んでもらうことで
本人がイライラするのは解決できてるかな。」
友人がこう答えた時に、ハッとしました。

着たくない服を着せられる
履きたくない時に靴を履けと言われる
出かけたい気分じゃないのに出かけると言われる
食べたくない物を食べろと言われる
大人だって、イヤって言いたいような事が続いて
全部正直にイヤって言ってたら
イヤイヤ期だと決められてしまう。
イヤイヤ期は、大人と意見が違うことを
子供が表明できるようになった時期
ということなんですよね。

帽子が嫌だというのでどの帽子ならいいか選んでもらったらこれに。

でももしかしたら
イヤイヤ期という名前をつけることによって
大人にとっては、だから仕方がない
と自分に言い聞かせる事ができるようになり
子育てのストレスから無意識のうちに
自分を楽にしようとしているのかもしれません。
それで楽になるのなら、
イヤイヤ期というものにも
良いところはあるのかもしれません。
でも、イヤと言った子供が、
何だったらイヤじゃないか
までもう一歩踏み込んでみるといいなと感じます。
「うちの子はどんなに聞いても
イヤイヤばっかりで本当に大変だったんだから
簡単なことを言わないでほしい」と思う方は
本当に大変だったんだと思います。
みんな頑張ってるんですよね。

これからも大変なことも
きっとたくさんあるのでしょうけれど
子育てって楽しいよ
と母が私に言っていた意味をかみしめながら
楽しみたいと思います。

machiron

2014年9月30日火曜日

秋の夜長

メールが全盛の世の中ですが
小さい頃から何か頂きものがあったりすると
「お礼のお手紙を書きなさい」
と言われて育ったおかげか
手紙は大切にしています。


季節の便せんを選ぶのも
楽しみのひとつ。
この季節のお気に入りは
ひがん花と、山ぶどうです。

先日、荷物の中に同封しようと思っていた手紙を
入れ忘れるという失敗をしてしまい
今日書き直していましたが
なかなかうまく書けません。

夜中に手紙を書くのはよしたほうがいいですね。
爽やかな朝に書き直します。

machiron

2014年9月17日水曜日

ベクトルとピント


突然、口笛が吹けるようになりました。

昨夜、コンビニでおやつを買ったその帰り道
徒歩1分ほどの間なのですが
ふと
口笛が吹きたくなりました。
でも、そもそも私は口笛が吹けません。
なぜか口から空気を吸うと音が出るのだけれど
吹くと出ない。。。。
37年間がんばって吹こうと試みていたけど
吹けなかったのです。

ですが突然ある考えが頭に浮かびました。
吹けないままの口の形でずっと吹き続けていても
音が鳴るはずない。鳴らない形なのだから。

そこで、今まで自分が口笛を吹こうとしていた口と
まったく違う形で吹いてみようと思いました。
自分の感覚としては音なんて鳴りそうにもない
劇的なフォーム改造です。

そうしたら、

"ヒュ〜" と、音が鳴りました!

衝撃。感動。

口笛は、唇を通って出る空気が振動して音になりますが
初めて自分の口で吹いた口笛は
今まで自分が思い込んでいた形と
全く違う口の形で
今まで自分が思い込んでいた調音点とは
全く違うところで音が鳴っています。

Youtubeの
「口笛が誰でも吹けるようになる動画」にも
全く触れられていなかったポイント。

なんだか、
目の前にかかっていることにすら気付いていなかった
霧が突然晴れたような思いでした。

これは口笛だけに限った事ではなく
手元で1ミリ方向が間違っていたら
10メートル先では大きくずれているように
いくら「努力している」と思っていても
努力の方向が間違っていたら目指すところには
たどり着けないということなのだ、と
よく聞く話ですが
それを身を以て体験したように思いました。

関節の角度が少し違っているだけで
伸ばした脚の美しさが変わってしまう。

努力が報われない、というのは
努力の方向が間違っているかもしれない
同じだけ練習をしているのに
あの人は上達して私は上達しないなら
練習の方法があの人には合っているけれど
私には別の練習方法が合っているのかもしれない。

自分の理想を叶えるための着地点と
努力の方法を選ぶところから大切なんだなぁ。。。

そんなに難しくは考えていませんが
口笛という身体的な感覚でそれを実感できました。

22時、ほんの1分の間にこれらの事を考えて
玄関で靴を脱ぐ頃には1人でにやけていました。
口笛を吹きながら。

今日から私は口笛が吹けるのです。

*写真は本文と無関係です(ランチの時飲んだエスプレッソしかも飲みかけ

machiron

2014年8月30日土曜日

ほとばしる


するべきことがたくさんあるときに限って
今しなくていいことがしたくなったりするものです。


昼間からJazzを聞きながら本を読むとか。。。


このお店は、置いてある本がストライクすぎて
本気で読んでしまいます。

人を待つ少しの間に立ち寄ったのですが
読みたいと思っていた米原万里さんの書評本を見つけて
1時間程熟読。
書評本でありエッセイでもあるこの本
最初の十数ページを読んだだけですが
歴史や政治の勉強にもなるなんとも深い内容。

何度も目から鱗!と思い
何度もなるほどそうか、と膝を打ち
一体私は目に何枚鱗を重ねているのかと驚き
膝は腫れ上がるのでした。

そのあと、2年ぶりに会う師匠の元へ。
そのあと、懐かしくて新しい場所へ。

心の中に
いろんなものがフツフツと沸き
迸って来ます。

興奮してなかなか眠れないのでここに記しました。
でもたぶんあと2分で眠れそうです。

今日も素晴らしい一日をありがとうございます。

おやすみなさい!

machiron

2014年8月20日水曜日

Voyage

会いたい人たちに会いに
東京に行って来ました。



電車に乗って
バスに乗って


散歩して
本屋へ行き


珈琲を飲んで



宿で他の宿泊客と
世間話を愉しみ


宿のまわりを散歩して
素敵なお惣菜屋さんを見つけて
どうしても味見したくなり


夕食前に腹ごしらえしたり


路地を目指し


飲んで食べて
食べて飲んで


時には山羊と触れ合い


散歩して


散歩して


素敵な床を見つけて嬉しくなったり


また珈琲を飲んだり

世界中どこを旅しても
同じことをしています。

ひとり旅なら、
美術館にいくでしょう。

でも今回は
久しぶりに愛おしい友人達に会って
たくさんたくさん
話をして
たくさんたくさん
笑いました。

相変わらず声が通らないとか
相変わらず身体が固いとか
20年近く経っても
おんなじ事でまだ笑っています。

住む場所や人生の出来事
環境がどんなに変わっても
心から思い合える関係は
本当に素晴らしい。

色んな事に惑わされることなく
信じて進めばいい!
と安心できました。

久しぶりに、いい旅でした。

まさに今
必要だった旅。

これから
静かに
でもとても強く
動き出します。

Special thanks : vivi, iwasa & all transpatent girls

machiron

2014年5月21日水曜日

Itadakimasu

*過去記事の転載です*


毎日朝から晩までキッチンにいるせいか
今日はよしもとばななの著作"キッチン"のことを考えました。
"キッチン"は日本語で読んだあとに
英語版も読んだのですが
不思議なことに、日本語で読んだ時より
この日本の小説の独特の空気を強烈に感じました。
おそらく、英語で書かれることで
他のアメリカ文学作品との違いが明らかになったのだとおもいます。
そのキッチンについてアメリカ人の先生と話した時
肉だけでなく野菜も生きていたものとして
「キッチンは死を生に変える場所なんだ」
という話になった事がとても印象的で
今でもよくその事を思い出します。

Je pense que c'est peut-être je passe dans la cuisine toute la journée, aujourd'hui je pensais à "Kitchen", un romain de Banana YOSHIMOTO. Je l'ai lu en anglais après en japonais, et je ne sais pas pourquoi mais quand je l'ai lu en anglais j'ai senti un air très spécial d'un romain japonais plus fortement que en japonais. Je pense que c'est parce que j'ai pu le comparer avec les autres romains américains car c'est écrit en même langue. Je me rappelle très bien que j'ai discuté sur ce romain avec mon prof américain du fac. On a parlé comme ça, "la cuisine c'est où on change les morts aux vies, car tous des alimentaires étaient des vies, pas seulement de la viande, aussi des légumes..." C'était un discussion très impressionnant. Je m'en rappelle souvent.

どんなときに思い出すかというと、
毎回の食事の前、「いただきます」を言うとき。
このいただきますは、宗教的な意味を超えて
「あなたの命を私の命にかえさせていただきます」
という、
ものを食べて生きている事に対しての感謝の気持ちを表す
素晴らしい日本語だと思います。

C'est quand que je m'en appelle? C'est quand je dit "Itadakimasu" avant que je commencer à manger. Ça veut dire "Je vais prendre votre vies et transformer à ma vie". Pour moi, c'est un mot japonais vraiment formidable, au-delà des religieux. Ça exprimer nos sentiments reconnaissants à nos vie qui est soutenue par prendre des vies.

外国へ行くと"美味しく召し上がれ!"
という言葉はありますが、
日本語のいただきますにあたる言葉を
聞いたことがありません。
(ご存知でしたら教えてください)
なので私はフランスに暮らしている時でも
必ず「いただきます」を言っていました。
日本人でない人に、なぜ私がいただきますをいうのか
なぜBon appétit (おいしくたべましょう)では足りないのか
説明するとみんな感心して、私の周りでは
「イタダキマス」というフランス人がたくさん増えましたよ。

J'ai jamais entendu le mot qui corresponde Itadakimasu japonais malgré qu'il y ait des mots qui veulent dire "Bon appétit". (Renseignez-moi si vous en savez.) Donc je dit "Itadakimasu" à chaque repas quand j'étais en France. Des gens qui ne sont pas japonais m'ont souvent demandé, et j'ai souvent expliqué pourquoi "bon appétit" n'est pas suffisant. Ils ont souvent aimé la raison, puis il y avait pas mal de français qui disent Itadakimasu avant qu'ils mangent.

生きていることへの感謝の気持ちを忘れず
毎日の食事を大切にしたいと思います。

Je ne veux jamais oublier mes sentiments de reconnaissants à ma vie et respecter chaque repas.


machiron

2014年4月29日火曜日

L'esprit japonais


IKEAで購入した、鯖柄のペーパーナプキン。
日本人のみなさんは
なんだか変な感じがしませんか?


もう10年以上前になりますが
旅行で訪れたフランスで
日本風のデコレーションをしようとしたフランス人が
鯉のぼりのタペストリーを壁に貼っていたのですが
その頭が右向きになっていて
なんともいえない違和感を覚えた時に
日本では一般的に
”魚を置く時は頭が左”とされていることを
あらためて認識しました。


日本で、魚の頭を左にするのは
何か起源があるのか?
と調べてみたところ諸説あるようですが
そもそも、日本では
”左の方が右よりも善とされる”という大前提があるようです。
そしてその起源は、天照大神が
イザナギノミコトがみそぎで洗った左目から生まれた
とされる日本神話だとか。


また、左は『日足り』から派生していて
吉方とされているともいわれています。


この、左上位の考えは
神社のしめ縄・舞台の上手下手
着物の合わせ・右大臣左大臣・封筒の貼り合わせ
などなど
さまざまな場面でみることができます。


普段なにげなく普通だと思って過ごしている事でも
食文化だけでなく色々な文化が
その国や土地の歴史や成り立ち・自然と
強く結びついていると気付くと楽しいですね。


魚の頭を右にするのは
不祝儀の時なので、気をつけましょう。


machiron

2014年4月25日金曜日

Pomme de terre

ジャガイモを料理するたびに、思うことがあります。
ピーラーで皮を剥いて
シャクシャクと包丁を入れる時の感覚、
切り口の色。

リンゴみたい。。。

そして、なるほどフランス語でジャガイモの事を

"pomme de terre" = 大地のリンゴ

というわけだ
と改めて納得します。


そしてさらに
これもジャガイモを切るたびに
毎回毎回の事なのですが

この歌のイントロのポヨポヨとした
心地よい音が流れ始め
眠るまで頭の中に回り続けます。



You are the sunshine of my life  
That's why I always be around
You are the apple of my eyes
Forever you'll say in my heart....

「あなたは私の目のリンゴ」
って何それカワイイ!
と思ったのですが
瞳(黒目)という意味で使われているようで
聖書の中にも出て来る表現なのだそう。

瞳は不可欠な物、なので
「あなたは私にとってかけがえの無い存在」
という意味の歌詞です。

生まれつき目の見えないスティービーがつくった歌だと思うと
なんだか言葉よりもさらに深い物を感じます。


いつも
こんなことを考えながら、
ジャガイモを料理しています。


machiron

2013年12月29日日曜日

料理について

カフェをはじめた時

プロの料理人ではない私のコンセプトは

「家族で食べたい料理と、友達と楽しみたいおつまみ」

でした。

シンプルに「料理」と言う事だけ考えていうならば、

自分が作った料理やおやつを、お客様がお金を払って食べる。

その形に慣れるのは簡単な事ではありませんでした。

料理をすることが「仕事」の一部になり

料理を作る事そのものの本質が見えなくなってしまっていた時期が

あったように思います。


自然界からやって来た美しい材料に感謝をして、

食べる人の事を思って心をこめて料理をする。


気持ちが伝わって、

食べる人が喜んでくれると

その場が明るくなっていろんなお話が生まれて

新しい空気が生まれて、新しい人のつながりが生まれる。


お酒もそうですが、間に料理があることによって

空気が温かくなったり

親密になったり

そういった温かい変化のようなものが好きでした。

料理に自信が無くても、カフェを続けることができたのは

そういった人の温かさを感じる事ができたからだと思います。


何度も、言い訳のように言うのですが

私はきちんと修行をしたプロの料理人ではありません。

シンプルな物しか作れません。

味がブレる事もあるし、そもそも料理が仕事の一部になってしまうことに

自分が耐えられなかった。

じゃあ、なぜ料理をつくるのか?


料理を含んだ全ての空気が居心地よくなって

誰かを楽しく笑顔にする瞬間が好きだからだと思います。


お店を閉めて、しばらくは料理を作る事ができませんでした。

料理は自分の状態が全部投影される鏡のような物だと感じていて

同じ料理を同じレシピで作っても

自分の気持ちが100%でないと

全然丁寧じゃなかったり、優しくなかったり、

仕上がりに満足しなかったりします。

自分の状態が映し出される料理を作り出すという

心の準備がなかなかできなくて、時間を要しました。


少しずつだけれど、誰かのために料理を作って

やっぱり喜んでくれたら嬉しかったりして

最近では、1年以上作っていなかった、カフェで出していた料理も

作ってみるようになりました。

機械的に、義務感に駆られて作っていたときと違い

最初にこのメニューをお店に出そうと決めた時の

丁寧な気持ちを思い出す事ができました。


ひとつひとつの手順を丁寧にこなしていくと

素材もちゃんと応えてくれて美しい姿を見せてくれます。

たとえば

カフェで使っていた卵と、近くのスーパーで買うことができる卵では

大きさや濃さ・白身と黄身のバランスも全く違うので

レシピ通りにつくっても同じ物はできません。それを、

大げさにいえば

卵とお話しながら一緒に作り上げていくような感じです。

なんて愛らしくキレイに焼けてくれたの!と嬉しくなるんです。


正直なところ、お店を閉めたらみんなすぐに忘れてしまって

ひとりぼっちになるだろう、と思っていました。

けれどお店を閉めて1年近く経った今でも

マキちゃんのキッシュが食べたい、とかカレーが食べたい、とか

言ってくださる方がいるのが、本当に嬉しいです。


 近い将来、またお客様のために料理を作れるようになれたらいいな、

と思っています。

けれどそれはおそらく

料理人としてではなく

居心地の良い空間を作るひとつの要素として料理がある、

といったようなかたちになるんじゃないかな、

と考えています。

やはりコンセプトは揺るぎなく、

「家族で食べたい料理と、友達と楽しみたいおつまみ」

です。家族でお迎えしたお客様と食卓を楽しむような

そういう空間がいつかつくれたらいいなと思います。

といいつつ、現時点で決まっている事は何もありません。



今実行している事は

「呼ばれたら可能な限り駆けつけて、楽しくする」という抽象的なこと。

呼んでください。



最近、料理をするのがとても楽しくなってきました。




machiron